我が国が梯子を外されるリスク/ボブ・ウッドワード『WAR 3つの戦争』を読んで

共和党の第1次トランプ政権が退場して、2021年に誕生した民主党のバイデン政権に世界は好感したと思う。好き勝手し放題の、でたらめなトランプに代わって、ベテラン政治家であるバイデンによる統治の方が安心できそうだったからだ。
大鹿 靖明 2026.09.20
誰でも

 そのバイデン政権で着々と進められたのが中国封じ込め政策だった。先端技術におけるアメリカへの挑戦を隠そうともしない習近平に対し、第1次トランプ政権はファーウェイの孟晩舟副会長を2018年にカナダで逮捕するなど厳しい姿勢をとってはいたものの、それが一気に加速して露骨な〝兵糧攻め〟を講じるようになったのは、バイデン政権の時代である。

 スーパーコンピューターやAIに欠かせない米エヌビディアの画像処理半導体GPUの中国への輸出を禁止する。米ケイデンスや米シノプシスの半導体設計支援ツールの対中輸出も禁止する。KLAやラム・リサーチ、アプライド・マテリアルズなど米国製半導体製造装置も中国に輸出することを禁じ、さらにそれだけでなく、これらの機器のメンテナンスや調整のために米国人エンジニアが中国現地でかかわることを禁じる。

 工程ごとに分業化した複雑な半導体の製造工程において、CADのようにして半導体の設計を支援するツールや、工程ごとに専門化した製造装置を手に入れなければ、半導体を作ることはできない。微妙なチューニングが必要な、製造装置類は、メーカーのベテランエンジニアの手を煩わせないとスムーズに作動しない。アメリカは、それらを海外に頼る中国の急所を突いて半導体の製造をしにくくしたのだ。

 アメリカはオランダと日本にも共同歩調をとるように要請した。念頭にあったのは、露光装置を牛耳るASMLと、感光材をウエハーに塗るコータ・デベロッパの世界市場を独占する東京エレクトロンだっただろう。露光装置とコータ・デベロッパがないと、半導体製造のもっとも枢要な「前工程」が成り立たない。

 さらにバイデン政権で制定されたCHIPS&科学法(チップス法)によって、アメリカ国内に半導体工場を新設する場合には巨額の政府補助金が投じられるようになった。台湾から誘致したTSMCの2ナノ~4ナノのアリゾナ工場や、サムスンがテキサスに新設する3ナノの工場といった最先端の半導体工場の新設に、米国政府は500億ドルもの資金を大盤振る舞いするというのだ。ただし、この補助金を受け取ったら最後、TSMCもサムスンも中国に有する自社工場への新規投資は禁じられる、という条件がつく。アメリカはTSMCやサムスンに米国内に先端半導体工場を立地するよう促す半面、彼らがすでに構えている中国の拠点工場を〝見捨てる〟よう命じたのである。

「アメリカはここまでやるのか」 驚嘆した中国封じ込め政策

 一連の政策は、半導体の製造工程をとてもよく研究して取り組んだものと感心した。規制について書かれた分厚い資料のページをめくるたびに「アメリカはここまでやるのか」と心底驚いた。先頭に追いつこうと迫ってきた中国をいきなり足払いし、思い切り転倒させようとしたのである。

 日本は台湾のTSMCを熊本に誘致し、ラピダスが北海道千歳市に造る工場に巨額の補助金を投じる。我が国の半導体政策はこのときのバイデン政権の施策をコピーしている面がある。ラピダスが、米IBMの開発した技術を導入するにあたっては、当時の萩生田光一経産相が訪米してレモンド商務長官の了承を得ている。日本は米国の半導体政策を補完する役割を演じてきた。

 こうしたバイデン政権の知恵袋が、ジェイク・サリバン大統領補佐官だった。最近読み終えたボブ・ウッドワードの『WAR 3つの戦争』(2025年刊、日本経済新聞出版社)によると、マーク・ミリー統合参謀本部長がサリバンを「ほとんど法律事務所みたいだった」と評する場面がある。彼が、3センチか5センチある分厚いバインダーをまるで宿題を与えるように高官たちに渡し、目を通すように勧める。サリバンはあらゆることを考え抜き、何でも答えられるように用意している。バイデンが頼りにする秀才だった。

ボブ・ウッドワードのいまのところ最新作。彼には珍しくトランプを全面的に否定したのは、遺作のつもりで「遺言」としたのかもしれない。

ボブ・ウッドワードのいまのところ最新作。彼には珍しくトランプを全面的に否定したのは、遺作のつもりで「遺言」としたのかもしれない。

 サリバンは、それまでの新自由主義的な経済政策を転換し、「政府投資が技術革新を育む」として大規模な公共投資を是認する理屈「サリバン・ドクトリン」をひねり出した。政府が特定産業にテコ入れするような産業政策は新自由主義の時代、途上国が先進国に追いつこうとして取り組むものと考えられ、先進国の間では蔑まれてきたが、それを先進国が大手を振ってできるように正当化したのである。日本の経済産業省は、このアメリカの変節を参考にして、巨額補助金による産業育成策に乗り出す「経済産業政策の新機軸」を2021年に打ち出している。これはいまの高市政権に至るまで引き継がれている。

 こうしてバイデン政権が中国に対して取り組んできたことを、2025年からの第2次トランプ政権はひっくり返そうとしている。トランプはエヌビディアの設計した半導体「H200」の中国への輸出を解禁し、5月に自身が訪中した際にはエヌビディアのジェイソン・ファンCEOも同行させた。それまでの中国敵視からの大きな転換だった。バイデン政権で中国封じ込め政策を立案した国務省のクリス・マグワイアは「なぜAI分野で中国に対し『可能な限りの大きなリード』を維持しないのか。現政権の政策は狂気じみて見える」と最近、朝日新聞に語っている(2026年9月10日、「先端技術・鉱物『武器化』する米中」/榊原謙)。

 ウッドワードの『WAR』は、ミリー統合参謀本部長が「話がある」とウッドワードを誘い出し、「トランプほどこの国にとって危険な人物は、いまだかつてなかった」と吐露する場面が描写されている。ミリーは「彼はいまだかつてない危険人物だ(中略)いまは彼が完全なファシストだと気づいた。この国にとってもっとも危険な人間だ」とまくしたて、「きみたちは彼を阻止しなければならない!」と、ウッドワードの属するワシントン・ポスト紙を含めて報道機関が第2次トランプ政権の成立を阻むよう訴えたという。

 歴史の目撃者たらんと常に客観描写に徹するウッドワードには珍しく、トランプを厳しく難じている。「トランプの元主要閣僚や上級補佐官たちは公に、トランプは二度と大統領になるべきではないし、候補者にもなるべきではないと述べている」と記し、ジョン・ボルトン大統領補佐官やジェームズ・マティス元国防長官ら9人の高官の名前を列挙している。

トランプは「史上最悪の無謀で衝動的な大統領」

 そのうえでウッドワードは「ドナルド・トランプは、大統領として不適切な人物であるだけでなく、国を率いるのに適していない。トランプは、犯罪者だった大統領のリチャード・ニクソンよりもずっとひどい」「トランプは恐怖と怒りによって統治してきた。それに、大衆と国益に無関心だった」「トランプはアメリカ史上最悪の無謀で衝動的な大統領」などと本書の中で断罪している。今年83歳のウッドワードの23冊目となる本作は、トランプを「史上最悪」と評し、逆に「老いぼれ」と揶揄されたバイデンに肯定的な評価を下している。

 バイデンは2022年1月19日、ウクライナ国境にロシアが大軍を集結させていることを明らかにし、ロシアのプーチン大統領の侵略意図を世界中に暴くことによって開戦を押しとどめようとした。だが、プーチンは躊躇せずに侵攻に踏み切り、以来、アメリカやNATO加盟諸国の支援を受けたウクライナが抵抗を続けている。サリバンは本書で「もしトランプだったらウクライナの戦争はなかっただろう」と話している。トランプが大統領であったならば、プーチンの侵略を容認し、ロシアの軍勢がやすやすとキーウを占領しただろう、と考えたからだった。だから戦争にならないというのである。

 ウッドワードが「無謀で衝動的」と評したトランプはその後、ベネズエラのマドゥロ政権を打倒したのに気をよくして、イランでも同じことをやってハメネイ師を爆殺した。しかし、意図した早期収拾に失敗し、紛争が泥沼化してしまった。イランによるホルムズ海峡の封鎖を招来し、世界経済は大混乱に陥っている。ウッドワードの指摘の通り、トランプ大統領は「大衆と国益に無関心」なのだ。

 我が国の経済安全保障政策は、バイデン政権時代のアメリカの取り組みがモデルになっている。「トランプが日本の頭越しで中国と手打ちをしたら、どうなるんだろう。我が国は梯子を外されることにならないか」。傍流ポストに身を置く経産官僚にはそう言って、省内を闊歩する経済安保派を冷めた視線で見ている。一方、中国封じ込めに熱心で、中国から露骨に敵視されてきた中堅官僚に、トランプの変心を踏まえて「せっかく(日本の)技術流出防止策をやっても、こうやって中国と手打ちをされたら当てが外れたことになりませんか。いま起きていることはバイデン時代とは大違いです」と機密性の高いアプリでメールを送ったものの、返信がなかった。

無料で「大鹿靖明のニュースレター」をメールでお届けします。コンテンツを見逃さず、読者限定記事も受け取れます。

すでに登録済みの方は こちら

サポートメンバー限定
KADOKAWAの悲劇⑧/歴彦の老化
サポートメンバー限定
「戦略」が大事とわかっていても……/垂秀夫元中国大使の『戦略的思考』を...
読者限定
ソフトバンクグループのニケシュ・アローラ退任騒動の内幕/アロック・サー...
サポートメンバー限定
KADOKAWAの悲劇⑦/夏野剛という男
サポートメンバー限定
KADOKAWAの悲劇⑥/ドワンゴ再建
誰でも
読書日記⑥/『ブレザレン』/ボブ・ウッドワード&スコット・アームストロ...
サポートメンバー限定
読書日記⑤/『習近平研究』/鈴木隆
誰でも
読書日記③/『自由』/アンゲラ・メルケル