読書日記⑥/『ブレザレン』/ボブ・ウッドワード&スコット・アームストロング
ほんの数日前に読んだマーヴィン・ゲイの伝記には、キャロル・キングの「つづれおり」(1971年作)が1000万枚も売れたことや、少し遅れて世に出たブルース・スプリングスティーンが〝社会派〟として主流メディアに好意的に取り上げられることに対して、マーヴィンがやるせない気持ちを抱いていたことが記されている。「ホワッツ・ゴーイン・オン」(1971年作)を発表した自分がもっと認められてしかるべきなのに、という思いからだった。
ロックやソウルを舶来文化として受容する我が国では、キャロル・キングもブルース・スプリングスティーンもマーヴィン・ゲイもほぼ並列に輸入されるため、それぞれの社会的背景の差異は捨象されてしまいがちだが、「ホワッツ・ゴーイン・オン」の発表当時のアメリカは、白人と黒人との間にまだ厳然たる差別があった。キャロル・キングは社会進出し始めた白人女性の、スプリングスティーンはベトナム後の白人男性のハートをつかんだのに対し、マーヴィンの音楽は、それがベトナム戦争当時の世相を映し出す問題意識に根差し、音楽的には従来のソウルミュージックにとどまらない非常に画期的なものであっても、主流派からは「黒人R&B市場」という枠を課せられてしまう。
だからマーヴィンは「俺はグラミーさえ取れない」と嘆くのだった。

本書のページをめくって、まずそのことが頭に浮かんだ。アメリカでは1954年に公立学校における黒人差別は違憲という判決が下されているのに、本書が取り上げている1969~1975年は、公教育における差別が依然として〝解消〟されていなかった。最高裁判決で差別撤廃を明言したにもかかわらず、だ。判決には、差別撤廃の時期を「熟慮の上で可能な限り速やかに」という曖昧さを残す言葉があったため、南部諸州はその文言を逆手にとって「まだ可能な準備が整っていない」「混乱が起きる可能性がある」などと言い訳し、ずっと先送りにしていたからだった。そのため、1970年代に入っても個々の学校の差別事件が相次いで最高裁に持ち込まれていた。
それまでの最高裁の裁判官は比較的リベラル派が優勢だったが、ニクソンが大統領に就任すると、リベラル派の裁判官の退官に乗じて相次いで保守派を送り込むようになる。彼の選挙基盤でもある南部諸州の歓心を買うには、黒人差別を解消しようというリベラル色の強い判決が出されては困るのだ。保守派の裁判官には、リベラル派裁判官を牽制するブレーキ役が期待された。
裁判官は新聞記者にとって手ごわい相手だ。なかなか会えないし、会えたとしても守秘義務を盾にとって話してくれない。裁判官同士の合議の内容は秘密になっている。アメリカも同じようなところがあり、ボブ・ウッドワードと同僚のスコット・アームストロングが取材を申し込んでも、最高裁長官は守秘義務を盾に取材依頼を拒否した。他の最高裁裁判官の多くも同じように取材依頼を拒否し、ひそかに取材に応じたのは数人だけだった。
それなのに、黒人差別、女性差別、ポルノなど最高裁で争われた一つ一つの事件を題材にして、保守派、中道派、リベラル派が三つ巴になる裁判官会議の論争を生々しく描き出すことに成功したのは、数十人の元最高裁職員と170人にも及ぶ〝裁判書記〟から話が聞けたからだった。つまり十数人の裁判官が取材を断って来ても、彼らのスタッフとして手足のように働いた200人ほどの書記や職員を情報源としたわけだ。そこに目をつけ、取材を完遂する力量たるや、相当に凄い。
ニクソン政権の意向を忖度してくれることが期待された保守派裁判官たちは、裁判官会議の論争を通じて、意外にも穏当な采配を下していく。ベトナム戦争の機密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」では、「ニューヨーク・タイムズ」「ワシントン・ポスト」2紙に軍配を上げ、政府側の差し止め請求を棄却。さらにニクソンがホワイトハウス内で録音していたテープを議会や司法当局に提出することを拒絶しようとすると、裁判官は全員一致でニクソンの意向を退けた。ニクソンは国家安全保障に関する事柄を盾にとって、テープ提出の例外や〝隙間〟があることを期待していた。
「全員一致なのか」とニクソンは訊いた。
「全員一致です」とヘイグ。「隙間はまったくありません」
「全然ないのか」
「水も漏らさぬ厳しさですね」
ニクソンは判決に従うほかないと決めた。
この17日後にニクソンは辞任した。
素晴らしいエンディングだ。ウォーターゲート事件はこのようにして終幕を迎えた。
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