〇月〇日、区長になった女の「それから」①/彼女は国際NGO出身

杉並区の岸本聡子区長
私は2024年2月、当時、単身赴任先だった福岡の小さな映画館で「〇月〇日、区長になる女。」を観た。岸本聡子という女性区長に対して、「へー、こんな人がいるんだ」というのが率直な第一印象だった。そう思っていたら翌2025年5月、拙宅のある板橋区で地元の住民団体が杉並区の2人の女性区議—共産党の小池恵、立憲民主党の寺田陽香—を招いた講演会を開いた。聴きに行くと、二人とも岸本区長誕生の選挙戦を手伝ったことがきっかけとなって区議に転じたという。以来、岸本が書いた『私がつかんだコモンと民主主義』『地域主権という希望』『杉並は止まらない』などを立て続けに読んだ。「これは、おもしろそうだ。杉並で何が起きているのか、取材する価値がある」。そう思った。
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空手同好会のカッコいい先輩に連れられて……
いま京都で乾物と生活雑貨のお店「すみれや」を営む春山文枝(1970年生まれ)が35年も昔のことを振り返った。
「私は留学先のアメリカの『シーク』という団体にかかわっていて、『日本人だったら日本の若者たちに声をかけないか』と言われて。それで1991年、『A SEED』という国際NGOの運動にかかわるようになったです」
A SEEDは、世界約50カ国の青年環境団体が参加する団体で、翌1992年にブラジルのリオデジャネイロで開かれる地球環境サミットにむけて国際的なキャンペーンを展開しようとしていた。
このときは永続する団体というよりも、あくまでも一時的な運動として始まっている。
「自分たち若い世代の声を国連に届けようと、『A SEED』キャンペーンというのが始まって、海外から『日本でもやらないか』とお誘いの声がかかったんです」
春山は一時帰国し、A SEEDの運動にかかわるようになったものの、いったんアメリカの留学先に戻り、再び帰国。そしてA SEED JAPANの専従職員となった。
そんなときである。A SEED JAPANの渋谷の事務所に背の高い女性が現れた。167センチあるすらりとした女性だった。しかも、春山いわく「ちょっとカッコいい先輩に連れられて」やってきた。
彼女は岸本聡子(1974年生まれ)といった。
岸本は東京・大田区に生まれ、横浜市で育った。この世代には珍しい5人きょうだい。神奈川県立の進学校に進んだが、大学受験は思うようにならず、「なんとか合格した」という日大文理学部に進んだ。1993年のことである。
彼女は時代の空気になじめない学生だった。
「まだバブルの余韻が残っていて、大学の中がすごく浮かれていたんですよ。合コンとかスキーとかテニスとか、そんなことばっかりだったの。私はちょっとひねくれた学生だったので、そういうのが全然ピンとこなくて、でも身体を動かしたかったから、それで武道がいいな、と思ったんです」
岸本は空手同好会に加わり、バイトと稽古の日々が始まった。しばらくして4年生の男性の先輩から「サッちゃん。環境問題に興味ない?」と声をかけられ、連れて行かれたのが、春山がいたA SEED JAPANの渋谷の事務所だった。大学1年の冬のことだった。
岸本はそのときのことを回想してこう語る。
「私を連れて行ってくれた先輩は日本代表として地球環境サミットに行ったことがあったんです。地球サミットが終わった後、日本にできた様々な環境問題の学生のサークルのネットワークをつくろう、と言い出して、そうした活動のつなぎ役がA SEED JAPANでした」
大学受験失敗、日大進学したものの、心中は不服
希望の大学に入れず、満たされない思いの中にあった。偏差値で輪切りにされる社会に割り切れぬ思いを抱いていた。当時の朝日新聞の取材にそう答えている。
渋谷の古い雑居ビルの2階。狭い部屋で7、8人が議論していた。ついこないだまで「NGO」という言葉を知らなかったのに、彼女は次第に活動にのめり込むようになっていった。
それを受け入れる春山は、最初の1年は「ものすごく彼女と仲が悪かったんですよ」と打ち明ける。
「彼女は積極的で、1人でどんどんアクションを進めていく人なんですが、私は事務局でボランティアのコーディネートをしたり団体間の調整をしたりしてきたので、お互いすれ違いが多くて。互いのやっていることに想像がいかず、ぎくしゃくしたんです」
そうした行き違いも1~2年して次第に解消していったというが、彼女の性質を示すエピソードだろう。
春山は言う。
「アメリカやヨーロッパやアジアの団体と一緒に運動をしていく中で、次第に目覚めていったのだろうと思います。海外の動きを意気に感じて、どんどん吞み込んでいったんです」
いま淡路島で暮らし、ファシリテーターの仕事をしている青木将幸(1976年生まれ)は、岸本の1学年下で、「気持ちよく挨拶できる人だな」というのが彼女の第一印象だった。
「今のように環境問題がメジャーになる前に立ち上がった団体だったので、非常に感度の高い、リーダーシップや先見性があるメンバーが多いというふうに僕は感じました」
その中でも岸本の印象は「フェアな人だな」というものだった。
「学生なので自分の持論が正しいとか、あるいは相手を論破してやろうとか、そういう人が多い中で、岸本さんは珍しく、他人の意見を自分の意見と融合させて話せる人という印象を受けました」
岸本は1997年に日大を卒業すると、A SEED JAPAN の有給の専従スタッフとなった。月給は6万円だった。企業や役所に就職することなく、入ったのは売り出し中の国際環境NGO。社会党や共産党のような革新政党でもなければ、中核派や革マル派など新左翼の過激派でもない。新しい若者の運動体だった。
1997年、京都で地球温暖化防止会議が開かれることになった。海外からやってきた学生活動家を受け入れ、100台の自転車を借りて、京都まで一緒に走るというキャンペーンを展開した。このときの彼女の活動が、朝日新聞に紹介されている。

2026年11月の朝日新聞夕刊の連載記事の中でも、1997年に彼女が取り上げられた写真を使った
京都議定書に若者の意見を反映させようと企画された「世界青年環境ギャザリング」の歓迎パーティーで、「『英語が下手なんで……』と苦笑いしながらも気後れせず、話しかけていく」「アルバイトしても生活は苦しい。その中で4月から月に2万6千円を出して英語を習い始めた」(1997年12月2日、「岸本聡子さん A SEED JAPAN」)と。
青木は、岸本が代表に就任した1998年、彼女と一緒にA SEED JAPANの団体としての運営のルール作りに携わっている。「理事会」という意思決定機関を組成し、「細則」という規則を設けた。
環境NGO「A SEED JAPAN」の代表に就任
「青年団体なので30歳を超える理事は全体の3分の1を超えないようにする」
「ジェンダー比については、一方の性別が全体の3分の2を超えないようにする」
こうした条文からなる。これを理事会の冒頭、毎回読み上げて互いに意思確認していった。青臭いが「民主主義の学校という側面がありました」と青木。自分たちで運営し、家賃を払い、外部の人にも理事会を公開して透明性を高めた。青木は大学卒業後も4~5年間、A SEED JAPANに人材育成を担当する理事としてかかわっていくことになる。

A SEED JAPAN の理事会細則
世界貿易機関(WTO)は1999年、シアトルで閣僚会議を開催し、「ラウンド」と呼ばれる多角的貿易交渉に取り掛かろうとしたが、「反グローバリズム」を掲げる団体が激しい抗議行動を展開し、交渉は決裂した。このとき「反グローバリズム」「反自由主義貿易」を掲げるNGOの存在が一躍、スポットライトを浴びることになる。
岸本はシアトルに行ったわけではないが、同世代の輝かしい運動を誇りに思った。
「シアトルでものすごく良い対抗運動ができて。国際社会が目指しているグローバル化はビジネスのためのものであって、私たちが主張してきた公正さとか平和とか連帯のグローバル化ではないんです。だからこそグローバル・ジャスティスを求める運動が広がっていったんです」
そう総括する。
まもなく、同じような運動家のオランダ人のオリビエと知り合うようになった。東京で国際的な会合を開いたときの、欧州の代表の1人だった。
妊娠するつもりはなかったのに、お腹の中に生命が宿っていることを知った。自身の5人のきょうだいは母が陣痛促進剤を打って、産婦人科の医師が出産日をコントロールして産んだ。それに違和感を覚え、「自然なお産をしよう」と、かかっていた産婦人科のクリニックに断りを入れて、小さな助産院で出産することにした。
男の子だった。
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